みなさん、こんにちは!
昨日に引き続き、ハロウィーンのお話しです。今日はハロウィーンがどのようにアメリカに伝わったのか見ていきましょう(*’▽’)
諸聖人の日
諸聖人の日は、かつては万聖節(ばんせいせつ)と呼ばれ、全ての聖人と殉教者を記念する日です。
西暦609年5月13日、教皇ボニファティウス4世は、ローマ神々の神殿であったパンテオンをキリスト教の殉教者を称えるために捧げ、ローマ・カトリック教会では殉教者の日として祝われるようになりました。
その後、教皇グレゴリウス3世が、すべての聖人と殉教者を称えるようにし、その日も5月13日から11月1日に変わりました。
キリスト教とケルトの儀式
9世紀には、キリスト教の影響はケルトの土地全体に広がり、古いケルトの儀式と混ざり合い、または取って代わるようになりました。
西暦1000年、教会は11月2日を、死者を称える「死者の日」としました。これはケルト人の死者の祭りを、教会が認める休日に取って替えたものであると信じられています。
「死者の日」は、サムハインと同様に、大きな焚き火、パレード、聖人や天使、悪魔の衣装を着て祝われました。
聖人の日のお祝いは、All-hallowsまたはAll-hallowmas(中世の英語のAlholowmesseから)(どちらも聖人の日の意味)と呼ばれ、その前夜がAll-Hallows Eveまたはハロウィーンと呼ばれるようになりました。それは、かつてケルト人の宗教儀式サムハインが行われたその夜になります。
アメリカ版ハロウィーン
英国やヨーロッパ諸国の植民地であった頃のアメリカは、プロテスタントの信仰が強固だったので、ハロウィーンの祝祭はかなり限られていましたが、メリーランド州と南部の植民地では珍しくはありませんでした。植民地時代のアメリカでは、ハロウィーンで幽霊の話やさまざまないたずらが行われていました。そして、19世紀半ばまでは、秋の収穫祭が行われていましたが、ハロウィーンはまだ全国的に祝われているものではありませんでした。
さらに、ヨーロッパの様々な民族やアメリカンインディアンの信仰と習慣が触れ合うことによって、明らかにアメリカ版とも言えるハロウィーンが出現し始めました。初期のころには、収穫を祝うために開かれた「プレイパーティー」が含まれていました。地域の人々が集まって亡くなった人の話やお互いの運命について話し、踊り、歌うための集まりです。
19世紀の後半、アメリカは新しい移民で溢れかえりました。特にアイルランドのジャガイモ飢饉から逃れた何百万人ものアイルランド人によって、ハロウィーンのお祝いが全国的に広まるようになったのです。
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